自分自身を知ってもらう事、皆さんに知って欲しい事。
たくさん発信出来たら良いなと思います。
コンピュータが得意ではない分、質素な pageとなりますが、少しずつ学んで行こうと思います!
プロフィール
プロフィール
名前: 森龍🐲 Mori Ryu
生年月日: 2000/08/31
出身: 岐阜県関市
身長/体重: 169cm/66kg
血液型: A型
利き手/利き足: 右
ポジション: MF・FW
好きな言葉: Having a dream makes life bright
「夢を見るから、人生は輝く」
経歴
↓学歴↓
岐阜県関市立田原小学校
岐阜県関市立桜ヶ丘中学校
岐阜県立岐阜工業高等学校
↓サッカー歴↓
桜ヶ丘スポーツ少年団
2012- SC岐阜VAMOS
2016- 岐阜工業高校サッカー部
2019- Newell’s Old Boys (アルゼンチン)
2020- NK Omladinac (クロアチア)
サッカー人生
兄貴の影響で小学校入学前に地元のサッカースクールにてサッカーを始めました。幼い時は、普段から親や4人兄弟の末っ子として、たくさん遊んでもらい、その影響からかスポーツが大好きでした。
小学校入学とともに、地元のスポーツ少年団に入団しました。自分で言うのも恥ずかしいですが、当時はドリブルが大好きで誰よりも自分が上手いと思ってました。🤣
そこから数々のサッカーチーム、スクールに所属しました。
小学4・5年生の時には、ブラジルへのサッカー留学をしました。その時は、キングカズこと三浦知良選手のお父さんである、納谷宣雄さんにお世話になりました。本当にサッカー留学の意味も分かってない自分に対して、サッカーの本番ブラジルでの経験をさせてくれた両親には頭が下がります。感謝しかないです。
小学6年生になる前に、全日本少年サッカー大会の全国大会に出るために、SC岐阜VAMOSに所属。しかし、全国大会の夢は叶いませんでした。。小学校までは本当に自由にサッカーしていたなと思います。
中学も同様、SC岐阜VAMOSに所属しました。ジュニアの時とは違い、中学からはセレクションにて選ばれた選手たちであり、錚々たるメンバーが集まっていました。中学生の体が成熟していない時期にコートを広く使いパスで崩していくサッカーをしていた為、東海の街クラブの中では、ほとんど負け無しでした。言い訳になりますが肝心な全国大会は相性や、くじ運もあり出れませんでした。普通に考えてたら全国に行ってもおかしくないチームで余裕で戦えるチームだったと思います。大好きなチーム、サッカースタイルでした。
高校は岐阜工業高校サッカー部に所属し、3年間クッソえらい練習を頑張りました。頑張ったというより、耐えたという方が適切な言葉かも知れません。(笑) 走れない自分が嫌いで本当に辞めたかったです。坊主にしたら済むんだろって安易な考えばかりしていました。
高1のインターハイにして10番を付けさせてもらい、自分の中には試合になったら誰よりもチャンスメイクできるし点に絡めるっていう、自信ではない勘違いをしていました。これが自分の成長を止めていたと後に気づくことになるのです。
高2のインターハイ、今まで10番で出てた自分が、スタメンからそしてベンチメンバーから外れました。朝練の走りが遅いが、いつもメンバーに入ってる先輩もベンチではなく応援席、いわゆるメンバー外でした。側から見たら朝練走れんからメンバー外れたんでしょ?って。しかし自分では気付いてました。あきらかに今まで通用していたプレーが周りの努力や身体の成長に伴い、通用しなくなってることを。自業自得ではありますが、周りは走れないからメン外と思っている、でも自分自身はサッカーの面で通用しなくなっているのに気付いている。本当に辛かったです。結果、県の決勝で敗れましたが、自分は試合に出ていない。応援させられている。ほぼ無気力でした。母はサッカー部の父母会に入っているため自分が出ていない試合を観戦に来ていました。試合後、全体への先生の話が終わり、少し離れた所に止めてある車まで、母と無言で歩いて行きました。母は頬には涙が流れていました。母は僕に話し始めました。「父さんは龍がこのサッカー部で認めてもらえんのやったら、サッカー部辞めてもいいし、学校自体辞めたってええんやぞっていってる。でも私はこんな認められんくて競争に負けたまま辞めてくのが、悔しくてたまらん。やるもやらんも龍が決めたらいいけど、私はこう思っとる」って。この言葉に本当に自分が変わって認めさせるしかない。そう決意しました。だからと言ってここから卒業まで走りが速くなったとは言えんけど、自主練での取り組みだったりチーム戦術に忠実になる事が出来たんじゃないかなと思います。